ししとー(理系)の考察録

将棋と生物学系の知識、時事について考察するブログ

【将棋】新しい棋書を買う必要性は?(一周で終わる棋書ばかり・・・)

 

将棋の勉強をする上で、棋書(将棋の本)を読むことは必ず必要になってくると思う。独学で将棋を指しても上達はするかもしれないけれど、私は「将棋が上手くなる」という観点からは全くもって無駄な行為だと考えている。(独学で将棋を指すことを楽しむことを批判しているわけではない。そういう楽しみ方も有りだと思う。)


この考え方については以下の記事で触れているので興味がある方はそちらで。

shishitohpepper.hatenablog.com


近年は将棋ソフトの発達により、「棋書は将来的に必要なくなるのではないか?」という意見も聞くが、私はあり得ないと考えている。なぜなら、将棋の勉強は「良い手の感覚」を身に着けることだと思っているからだ。その感覚は、将棋ソフトの指し手をだけを見ても身に着けることは難しい。しっかりと人の手によって言語化されなければ、感覚として吸収できない。


将棋ソフトは製作者でも解明できないブラックボックスの中で導き出された最善の指し手を示し続けるだけである。そこには指し手が最善である理由が、将棋ソフトの中の言語では示されているのかもしれないが、それを人間が理解することはできない。将棋ソフトは評価値と最善の指し手を淡々と示すであり、人の言葉で指し手の理由を語ってはくれない。

 

まあつまり、将棋ソフトの指し手を自分の中で咀嚼し、理解できる領域の人達が積極的に活用していくべきなのであって、私のような駆け出しレベルの将棋指しは棋書から学ぶことばかりだということだ。


そして、その学ぶべき棋書を読む上で1つジレンマが発生する。「新たな棋書を買いたい」と「読んだ棋書をもう一周しなければならない」というジレンマだ。

 

将棋に限らず、勉強をするうえで読んだ棋書(参考書)をもう一周するのは当然の事である。その方が将棋の上達に繋がることは経験的に分かっているし、世の中の人もそう言ってる。というか棋書を一周したぐらいで、人が本当の意味で身につけられる知識などたかが知れている。本全体の20%もあるだろうか?本を繰り返し、何周も読むことで、ようやく習得率を90%に近づくのだ。

 

しかし、本を一周読み終えた時、人は満足感や達成感も得てしまう。そこで何周も読もうという気力を奪われる。そして新しい、注目されている流行の戦型に手を伸ばして、過去の棋書をおろそかにしてしまう。表層の知識だけをさらっても大した上達には繋がらないのは分かっているのだが。。。

 

別に、時間が無限にあればいいんだけどね。どれだけ新しい本を買っても、全部知識として身に着けられる時間があれば。だが人生の時間は有限である。その時間の中で、将棋に使うことのできる時間は一体どのくらいなんだろうか。私はロングスリーパーなのでショートスリーパーの方が羨ましい。

 

少し話が逸れたが、こう考えると新しい棋書を買う必要性に疑問を感じる。おそらく、新しい棋書を買わなくたって家にある棋書を読み込めば将棋の実力は十分に上達するのだ。棋書を買ってそれを読み込まないのであれば、それはただの「消費」である。食べ物と一緒で、一時的な快楽や面白さだけがそこにある。

 

将棋の本を娯楽として消費してしまう。果たしてその行為に、将棋上達のための勉強として生産性は存在するのだろうか?