ししとー(理系)の考察録

将棋と生物学系の知識、時事について考察するブログ

新元号「令和」と平成の終わりについての話

 

本日四月一日、ついに平成に代わる新しい元号が発表された。新しい元号は「令和」というらしい。「令和」とは、万葉集中の「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」という文章に由来する言葉と報道されていた。


私の新元号を聞いた第一印象は、「言いづらそうな元号だなあ。」であった。もっとろくな感想は出てこないのかと自分自身に呆れたが、特に言葉に情緒とかを感じない性格なので仕方ない。(それにしても、万葉集という単語を聞いたのは日本史の授業以来である。筆者は理系で国語苦手人間なので、万葉集については詳細は忘れていた。)

 

「令和」の由来についてネットの記事では触れているものは多くあったが、意味について触れているものは少なかった。そのため少し調べてみたところ、安倍首相が「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている。」
と語ったそうだ。


個人的にはもっともらしい熟語的な意味は無いのだろうかと考えたのだが、そもそも「平成」や「昭和」などの元号もぱっと見で意味らしい意味が思い浮かばない。元号とはそういうものなのかもしれない。元号は言葉の響きの良さやフィーリング重視で決めていたりするのだろうか?


さて、新元号の発表に加え、平成が終わるまであと一ヶ月まで迫っている。平成生まれの私としては、自分の生まれ年もついに古い元号となってしまうのか。。。と少し寂しい気持ちになる。昭和生まれの方は元号の変わり目を迎えるのが二度目ということで、なおさら寂しい気持ちかもしれない。自分も将来、「平成生まれ!?古いね~」みたいなことを言われたりするのだろうか。生きているうちにもう一度ぐらいは元号が変わったりするのかな?


思えば、平成最後の年である2019年は様々な「終わり」を迎えた年であった。記憶に新しいもので言えばイチロー選手の引退があるし、羽生先生の無冠転落もとても印象的な出来事であった。と言いつつ実際のところ、「終わり」は結構なタイミングで訪れているのだろう。しかし、特に紐づけられる印象的な出来事がなければ、私たちは「終わり」に対して無関心なだけかもしれない。

 

そして、毎年迎えるものではあるが、季節の変わり目やこういった時代の変わり目はなかなか寂しい気持ちになる。私は人生経験的には「終わり」を経験した回数が人と比べて少ない方だと思うけれど、いざ「終わり」を感じた時は少しセンチメンタルな気持ちになる。

しかし、何かが終わるということは新しいことが始まる、と言い換えることもできる。悲しい気持ちを乗り越えて、これからも前向きに物事に取組んでいきたい所存である。皆さんもこれを機に、新しいことにチャレンジするのはいかがだろうか?将棋とかね?

 


追記:個人的な意見として、元号はとても歴史を感じる日本文化だと思うので残すべきだと思う。しかし、履歴書や書類においては、いよいよ表記を西暦に統一していいんじゃないだろうか?
あまりにも非合理的というか・・・これもまた日本という国の文化や国柄なのだろうか?